サッカー日本代表監督ランキング!歴代最高評価は誰?一覧で給与・勝率・名言もご紹介!

こんにちは!

カタールW杯アジア最終予選にて、オーストラリア戦こそ勝利したものの、苦しい展開を強いられている日本代表。

これまで日本をアジアのトップチームに成長させ、W杯に導いてきた監督たちは、どのような成績を残してきたのか、またどのような評価を受けてきたのでしょうか?

本記事では、歴代の日本代表監督について、成績や評価を元にTOP10のランキング形式でご紹介していきます(^^)/

 

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サッカー日本代表監督ランキング!歴代最高評価は誰?一覧で給与・勝率・名言もご紹介!

今回の選考基準は,

「日本代表をどこまで強化できたか」「主要国際大会で好成績を残せたか」です。

日本サッカーがプロ化した1992年以降の監督をランキング形式にして、TOP10を決めていきたいと思います。

 

第1位:岡田武史

1度目

就任期間:1997年10月〜1998年7月

給与:5000万円(年俸)

監督実績:1998年フランスW杯 GS敗退

勝率:47%(9勝4分6負)

2度目

就任期間:2007年12月〜2010年7月

給与:1億円(年俸)

監督実績: 2010年南アフリカW杯 ベスト16進出

勝率: 52%(26勝13分11負)

 

名言:

「重圧やプレッシャーは重力みたいなもので、重力がないと筋肉も骨もダメになっちゃう」

「ワクワクして言っているから人にも伝わるし、本人がワクワクしないで夢を語ったところで絶対に伝わらない」 など

 

過去に2度、日本代表監督に就任した岡田監督ですが、2度とも前監督の退任に伴う緊急登板でした。

その功績は、

「日本を初めてのW杯に導いたこと」

「変化を恐れず、現在の日本代表において最もベスト8に近づいた監督であること」です。

 

1997年10月に、当時の加茂周監督が成績不振で解任されると、コーチであった岡田が代理を務めることになりました。

監督未経験ながら、加茂監督が選んだ若手主体の選手をベースに、中山雅史らベテランを融合させるなどのテコ入れを行い、チームを再生。

見事にジョホールバルでイラクに勝利し、W杯初出場を決めました。

 

その後、コンサドーレ札幌や横浜F・マリノスの監督を歴任しながら、

2007年には病気で監督を辞したオシムに代わって再び代表監督に就任します。

 

オシムが築いた「流動的に動きながら相手を崩すサッカー」を継承しますが、W杯本戦直前にチームが不振に陥ると、

一転して、守備的なサッカーに切り替え、本戦ではグループステージ突破を決めます

 

決勝ラウンドでは惜しくもPK戦で敗れましたが、ここまでベスト8に近づいた瞬間はこれまでになく、

最もW杯で素晴らしい成績を残している監督として第1位にランキングしてみました。

 

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第2位:フィリップ・トルシエ

就任期間:1998年9月~2002年6月

給与:9000万円(年俸)

監督実績:2002年日韓W杯 ベスト16進出

勝率:46%(24勝17分11負)

 

名言:

「レギュラーは一人もいない。強いていえば、私だけだ。」

「彼ら(マスコミ)は監督というものが、魔術師か何かだと思っているようだ。」 など

 

第2位は、W杯で日本を史上初の決勝トーナメントに導いたフィリップ・トルシエ監督です。

その功績は、

「自国開催のW杯で成功をもたらしたこと」にあります。

 

名古屋グランパスやアーセナルを指揮した名将アーセン・ベンゲルの紹介を受けて日本代表監督に就任したトルシエは、

攻撃的なサッカーでアジアカップを制し、日韓W杯グループステージ突破を達成しました。

 

トルシエの戦術としては「フラットスリー」が有名です。

特徴としては、

最終ラインにディフェンダーを3人並べ、オフサイドトラップを仕掛ける、ゾーンディフェンスを敷くなどがあり、

ボールや相手の位置に応じて、身体の向きやライン設定を細かく決めるなど、徹底した約束事をベースとした戦術でした。

 

一方で性格に若干の難があったのか、

歯に衣着せぬ物言いは協会との間で軋轢(あつれき)をうみ、何度か解任の話が上がるほどだったと言います。

しかし選手たちとは積極的にコミュニケーションを取り、その強烈な個性で選手たちの信頼を掴んでいきます。

現在はコンサドーレ札幌に所属する小野伸二は

「トルシエ監督は(試合に向けての)ムード作りがすごくうまかった。練習ではいつもピリピリとした空気のなかでやれていたし、試合直前のスタメン発表まで誰が試合に出るのかわからない雰囲気を作ってくれたので、レギュラー選手でさえも『もしかしたら外されるんじゃないか』という緊張感を、常に保つことができた」

引用元:小野伸二にとって「歴代代表監督の中で トップ」はトルシエだった

と語っています。

 

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第3位:アルベルト・ザッケローニ

就任期間:2010年7月〜2014年7月

給与:2億2000万円〜2億5000万円(年俸)

監督実績:2014年ブラジルW杯 GS敗退、2011年アジアカップドーハ大会 優勝

勝率:55%(31勝12分13負)

 

名言:

「自分たちがどんな準備をしたか、どんな心構えで臨んだか、そのプロセスだけは何があっても忘れさせるつもりはない。自信を持つべきは、順位や数字ではなく、たどったプロセスそのものにあるのですから」

「私はゴールを決められることは嫌いですが、決められて嬉しかったのはキャリアの中で初めてです」  など

 

ACミランなどのイタリアの強豪クラブを指揮してきたザッケローニ監督は、ナショナルチームの監督を務めたのは日本代表が初めてでした。

その功績は、

「ショートパスを主体に主導権を握るサッカーを機能させたこと」です。

 

日本人の技術力の高さを評価したザッケローニは、アジアカップを苦しみながらも優勝するなど約1年間にわたり、16試合無敗を続ける好スタートを切ることができました

当時、本田圭佑・香川真司・岡崎慎司の通称「BIG3」を擁するチームはW杯出場を余裕を持って決定しましたが、

本戦を目前にして最前線で汗かき役を担う前田遼一が調子を落とすと、その代役を見つけられないまま本戦に挑むことに。

その結果、本戦ではグループステージで一勝もできないまま敗退が決まってしまいました。

 

代表監督としてW杯の経験がなかったザッケローニを選出したことの反省から、

以降の監督にはW杯を指揮した経験のあるハビエル・アギーレやヴァヒド・ハリルホジッチなどが招聘されるようになりました。

 

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第4位:ハンス・オフト

就任期間:1992年〜1994年

給与:3000万〜7000万円(年俸)

監督実績:1992年アジアカップ広島大会 優勝

勝率:48%(16勝8分9負)

 

名言:

「戦術的に各ポジションで必要な技術を発揮できるようにする。スキルフルで精神的に強く、ワールドカップ予選を突破できるチームを作る。考えるスピードと判断力を身につけさせたい。」

「日本代表は国の代表であり、全員に責任がある。特にラモスのような創造的な選手はその力をチームのために活かす責任を持つ。」 など

 

まだW杯に出場したことのない日本代表を、目前まで近づけたのがオフトでした。

彼の功績は、

「日本代表を、W杯出場を目指せるだけのチームに様変わりさせたこと」です。

 

当時の日本はアジア最終予選にも進出できない状態でした。W杯出場は夢のまた夢で、多くの国民にとって期待できるものではなかったのです。

ラモス瑠偉の強烈なキャプテンシーでなんとかチームを引っ張っている状態で、選手は監督よりもラモスの言うことを聞くような状態であったといいます。

 

このような状態をうけ、オフトはチームを1人の選手で導くのは危険であるとして、

日本を代表する選手たちに「アイコンタクト」「トライアングル」など、

育成レベルで習うようなことも、改めて徹底的に叩き込むことになりました。

 

そして、この基礎レベルの戦術を身につけた日本代表は、徐々に勝ちを重ね始めます。

ダイナスティ杯(現東アジアE-1選手権)を制すると、自国開催のアジアカップでも初優勝を収めて自信をつけていきます。

練習初日から扱いや指導方針をめぐって対立していたラモスも、最終的には「オフトを男にしたい」と語るほどの信頼関係を築くようになり、

W杯出場を目前まで手繰り寄せることができるほど、チームは成長をとげることができました。

 

結果として「ドーハの悲劇」として語り継がれるように、W杯出場は叶いませんでしたが、

オフト監督は日本がW杯に出場するための戦術などの知識・メソッドを与え、選手たちにW杯出場を目指してよいのだという自信を持たせたことが、後の日本代表につながっていると言えます。

 

第5位:イビチャ・オシム

就任期間:2006年6月~2007年12月

給与:9000万円〜1億円(年俸)

監督実績:2007年アジアカップジャカルタ大会 第4位

勝率:66パーセント(12勝5分3負)

 

名言:

「リスクを負わないチャレンジはない。そういう日本人に欠けている哲学の部分を埋めたいと考えていた。」

「相手より5歩余計に走れば、その5歩がすでに勝利の5歩だ。」  など

 

オシムは2006年7月、ジェフユナイテッド市原(ジェフユナイテッド千葉)での手腕を買われ、日本代表監督に就任します。

功績は、

「“考えて走るサッカー”という現代サッカーの基本を根付かせたこと」です。

 

細かいルールを設けず、選手たちの自主性を重んじて上手くいかなかったジーコ政権を踏まえ、

オシムは選手たちに「頭を使うこと」を求めました。

その練習はとても複雑で難解であったこともあり、練習後の選手たちは体より頭の方が疲れると愚痴をこぼしていたと言います。

 

しかしその効果は着実に身を結びます。

アジアカップは惜しくも4位に終わりますが、前政権で冷遇された中村憲剛や遠藤保仁など、

”賢い”選手が多く起用されるようになり、後の現代サッカーが日本に定着するきっかけとなりました。

 

任期中の脳卒中によって志半ばの退任となってしまいましたが、今でも彼の退任を惜しむ声は多いです。

 

第6位:西野朗

就任期間:2018年4月~7月

給与:1億2000万円(年俸)

監督実績:2018年ロシアW杯 ベスト16進出

勝率:28%(2勝1分4敗)

 

名言:「常に柔軟に物事を決断していく力を持たなければいけない。」  など

 

W杯を2ヶ月後に控える状態で解任されたハリルホジッチの後任を任されたのが、西野朗監督です。

功績は、

「短期間でメンバーを揃え、歴代タイの成績を残したこと」です。

 

W杯本戦まで2ヶ月という短期間ではチームを熟成させることは非常に厳しく、

西野監督は残された試合で選出された全選手をテストしました。

そして、柱に据えようとしていた本田圭佑や、G大阪時代からの教え子である宇佐美貴史を控えにまわし、

親善試合で活躍した乾貴士や香川真司をスタメンに置く改革を行いました。

 

W杯グループステージでは、香川の活躍などもあってコロンビアに勝利乾やスーパーサブとして起用した本田が活躍したセネガル戦を引き分けに持ち込むなど采配が的中。

危ぶまれたグループステージ突破を決めたほか、ワールドクラスの選手を擁するベルギーを窮地に追い込む健闘を見せました。

 

攻め急いで決勝点を奪われたとも見えるベルギー戦は批判の槍玉に上がりますが、

それを差し引いても、短期間で選手を選抜し直し、的確に起用したことは評価されるべきです。

異様に低い勝率も、十分な時間が与えられなかった状況下ですから、やむを得ない点だと思います。

 

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第7位:ヴァヒド・ハリルホジッチ

就任期間:2015年3月〜2018年4月

給与:2億7000万円(年俸)

監督実績:2018年ロシアW杯 本戦進出

勝率:58%(21勝8分7敗)

 

名言: 「プレッシャーは大好きだ。あなた方(メディア)の、時に一線を越えそうな(ほど不躾な)質問もかまわない」  など

 

ザッケローニや彼を継承したハビエル・アギーレから方針を変更して招聘されたのがハリルホジッチです。

功績は、

「ネームバリューではなく、コンディションの良い選手を起用し、チームを活性化させたこと」です。

 

ハリルは特に「デュエル」を強調し、1対1で負けないことや相手よりも多く走ることを求め

これまでの日本代表とは全く違うサッカーを展開していきます。

 

また、調子が悪ければ本田や香川のような前政権の中心となっていた選手も起用せず、

浅野拓磨・大迫勇也・井手口陽介などの若手選手を積極的に起用し、血の入れ替えを行いました。

 

アジア最終予選では、苦しみながらも突破したハリルジャパンでしたが、その後のE-1選手権や親善試合を落としたことや選手との会話不足を指摘され、W杯直前の2018年4月に解任されました。

 

W杯を戦うことができなかったハリルを評価するのは難しく、賛否は分かれるところです。

また彼の志向する戦術が日本にマッチしていたのかが議論されていましたが、それをW杯で確かめることができなくなった解任自体にも議論の余地があります。

 

第8位:加茂周

就任期間:1994年12月~1997年10月

給与:7000万円(年俸)

監督実績:1996年アジアカップアブダビ大会 ベスト8進出

勝率:52%(27勝10分14負)

 

名言:「決定力のなさでやられてしまったけど、ジャーナリストが書いているようなショックはこっちは受けていない。」  など

 

急進的すぎて選手や協会の信頼を掴めなかったファルカン前政権に代わって代表監督に就任したのが

加茂周監督です。

功績は、

「ゾーンプレスなど、新しい戦術を取り入れようとしたこと」です。

 

「ゾーンプレス」と呼ばれる、プレッシングとショートカウンターを組み合わせた戦術を選手たちに教え込んだ加茂監督でしたが、

その成果は欧州や南米のチームとの親善試合で一定の成果を見せました

 

しかし、アジアカップではクウェートに敗北すると、アジア予選でも勝利を積み上げられず、最終予選の真っ只中で解任されてしまいます

強豪チームには勝てるもののアジアで勝利を積み上げられないという2つの相反する側面を併せ持つことから、評価の難しい結果となっています。

 

しかし昭和時代の親分的な豪胆な性格からか選手からの信頼は厚く、

戦術がハマらなくても指揮を取り続けられたのは、その人柄によるものが大きかったのでしょう。

 

第9位:森保一

就任期間:2018年9月~現在

給与:1億5000万円(年俸)

監督実績:2019年アジアカップアブダビ大会 準優勝

勝率: 69%(30勝5分8敗)

 

名言:「『ダメなところを改善することで良くなるはず』という考えを捨て、できるだけ長所に目を向ける。」  など

 

W杯と東京オリンピックの両方を成功させるため、フル代表とU-23代表を兼任することを協会から託されたのが森保一監督でした。

功績は、

「圧倒的な勝率」です。

 

ハリルホジッチの解任によってイチからチームの作り直しとなった日本代表において、

全てを任された森保監督は、広島時代の教え子を用いながらクラブで活躍する選手に自らの方針を伝えていきます

 

守備ブロックを崩さないように、なるべく少ない手数で攻撃を完遂することを目指すサッカーはハリルホジッチの継承とも言えますが、

アジア各国の徹底した日本対策に苦戦し、徐々に勝ちきれない試合が増えてきています。

 

勝率はオフト以降最も高い数字を誇りますが、欧州トップリーグに数多くの選手を輩出している日本代表においては、言ってしまえば「勝って当然」の試合もあります。

また、選手起用や柔軟な戦術変更に対して疑問符がつき、その采配を批判が集まることもあります。

 

サンフレッチェ時代にはミハイロ・ペトロヴィッチ監督の戦術である、

通称「ミシャサッカー」の弱点を整理し、さらに練度を高めて3度の優勝を達成するなど、実績は十分の森保監督

クラブ監督時代の成績を見ても、スタートからチームを任せるより、そういった監督の参謀として代表に関わる方が、よりよい評価を得られたのではないかと思います。

 

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第10位:ジーコ

就任期間:2002年7月~2006年7月

給与:2億2000万円

監督実績:2006年ドイツW杯 GS敗退、2004年アジアカップ北京大会 優勝

勝率:52%(38勝15分19負)

 

名言:「シュートはゴールへのパスだ」  など

 

トルシエの後を継いだのが、Jリーグ黎明期から日本サッカーの発展に尽くしてきたブラジルのレジェンド、ジーコ監督です。

功績は、

「黄金世代の選手たちをのびのびとプレーさせたこと」です。

 

自主性を重んじたジーコは、チームに対して細かい戦術を与えず、選手たちに協議させる方法をとっていました。

アジアカップで優勝するなど、チームが一丸となって戦えているうちは良かったのですが、

個性の強い中心選手と控え選手との間に軋轢が生まれてしまうと、ジーコはそれを修復する手段を持っていませんでした。

 

W杯ではグループステージ敗退を喫したあと、

「チームの中に腐ったミカンがあり、それをどうにもできなかった」と述べているとおり、

チームを統率できなかったことを認めるような発言をしています

 

しかし、ジーコはこれまで監督経験がなく、ジーコを選んだこと自体が正しかったのかどうかも議論の余地があります。

その後、日本人を知り尽くしたオシムによって新しいサッカーがスタートしたことは、怪我の功名と言えるかもしれません。

 

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番外編:デットマール・クラマー

日本が国際大会で唯一メダルを獲得した大会が、1968年メキシコオリンピックです。

釜本邦茂や杉山隆一などの活躍もあって3位の好成績を残した日本ですが、

その基盤を作ったのがデットマール・クラマーでした

 

西ドイツのユース代表監督などを務めていたクラマーは、1960年に東京オリンピックを成功させるために招聘され、日本代表監督に就任しました。

 

日本人のレベルが実践レベルにないことを痛感したクラマーは、

インステップキックの蹴り方、インサイドキックの蹴り方と、現在なら小学生でもわかっているようなことを代表選手に徹底練習させました。

その初歩的な練習に対して選手たちからの批判は相当なものでしたが、その方針は一切変えず、あくまで基礎を叩き込みました。

 

また、協会が準備したもてなしを全て断り、入国して早々クラマーは選手たちが寄宿する宿で寝泊まりし、日本食を食べ、布団で眠る生活を送るなど、選手に寄り添った監督でもありました

 

そして東京オリンピックではアルゼンチン代表に勝利するなど、ベスト8の成績を残す活躍を見せましたが、クラマーは任期満了で帰国することになってしまいました。

また、クラマーは以下を提言し、帰国しました。

1強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。

2コーチ制度の確立。

3芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。

4国際試合の経験を数多く積むこと。代表チームは1年に1回は欧州遠征を行い、強豪と対戦すること。

5高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。

— 三上孝道『日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉』より

 

これらを実行した日本サッカーは更なる発展を遂げ、

クラマーの教え子たちを中心とする選手たちは、長沼健監督のもと、

1968年メキシコオリンピックで銅メダルを獲得します。

 

 

まとめ

歴代のサッカー日本代表監督について、ランキング形式でご紹介しました。

これまで様々な監督が、日本代表を強くし、W杯出場やGS突破などの功績を残してきています。

今後どんな指揮官のもと、日本代表が戦っていくのか注目していきましょう(^^)/

 

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